5月 Hさん 20代男性 車両修繕担当

今回、釜石・鵜住居・大槌の状態を見て言葉を失い涙がでてきた。

ボランティア作業は家具や土砂の撤去、瓦礫の撤去作業を行いました。午前中はみんなで協力し、夢中になって土砂を運び、作業後には達成感もあった。しかし、その後、被災場所を案内したもらった時には絶句してしまいました。

今回、自分達が作業したところはほんの一部であり、まさに街が丸ごと無くなるという光景を目にして、無力さを感じました。この場所に着くまでは早く現地の様子を見て、ボランティアに参加し、少しでも元気づけられたらいいと思っていたが、実際に見てみると目を覆いたくなった。

そんな中でも一緒にボランティア作業をさせてもらった釜石・宮古・盛岡の方々が明るく話しかけてくれ、逆に元気づけられてしまった。こんなに前向きな良い人達のために、これからも協力してきたいと思うし、改めて自分が今何ができるか考えたい。

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たった半日で こんなに集まりました
22名乗りのバスに 支援物資が満杯

2011年3月11日に発生した東日本大震災で犠牲となられた多くの人々に哀悼の意を捧げます。
また、現在も震災や原発事故に苦しんでいる人の立場に立ち、共に復興を成し遂げていく事を申し述べさせて頂きます。

 また、JR東労組が取り組んでいる釜石や東松島への復興ボランティアにも若手を中心に参加してきました。
東労組全体では5000名を超え、大宮地本だけでも、これまでに100人を超えるボランティアを派遣してきています。

 JR東労組大宮地本は、震災後直ぐに「震災復興団結・連帯本部」を立ち上げました。
 「なにかできることはないか」と考え、被災された方への支援物資の募集を呼びかけ「一人一支援物資」の取り組みを行い、激励メッセージを書き込んだ4万点を超える物資が集まりました。その物資は盛岡・仙台・福島へ22人乗りのバスを満杯にして計7回にわたって運び込まれました。

震災復興団結・連帯本部
支援物資を持った 組合員が続々集まる
参加者の感想文を抜粋して掲載します。

7月 Nさん 20代男性 電車運転士

釜石駅に到着して信号機がついていなかったり、瓦礫の山を見て驚いたが、その瓦礫の山と普通に走っている車を見てだいぶ復興に近づいているのかなと思っていましたが、それは自分の甘い考えだったとすぐに思いしらされた。車に乗って案内をしてもらうこと数分。先程までの景色はがらりと変わった。崩れた家、骨組みだけの家、そこに家があったであろうと思われる基礎。壁には×印のマーク。 進むにつれて現れる港に乗り上げた船。積み上げられた車。本当に言葉を失い、津波の恐ろしさ、自然の怖さを肌で感じました。

ボランティアセンターにはたくさんの人達が集まっていてそこで温かい気持ちになれました。自分達が活動させていただいたのは○○さんという方のお宅。家は1階が津波にやられ、その泥出しをさせていただいた。人数もいたし、気温も低かったにも関わらず、作業はとても時間がかかった。いくら水で流しても次から次へと泥が出てくる。作業をしながら自分の家がそうなったら・・と思いながら出来る限りキレイになるように取り組んだ。○○さんから当時のお話しを聞けたこと、作業が終わった時、○○さんが何度も何度も頭を下げて「ありがとう」と言ってくださったのが忘れられない。

自分は短い間だったが、釜石で直接肌で感じたことを忘れず、それを職場や家族、友人にしっかり伝えていく。そして、今回だけでなく、復興への取り組みを自分で考え行動していく。この活動に参加させて頂き本当に感謝します。

8月 Kさん 20代女性 車掌

何も無いことにただ驚きました。地震前を知らないで今の状態を見ると一瞬ただの荒地という印象を受けますが、よく見ると、確かに家があった場所でそのすさまじさに声が出なかったです。

今回は、お寺の境内の作業ということで、草むしりがメインでした。除草機でやってしまえば、あっという間に終わりそうな作業でしたが、草を抜いていく度に深く積もった砂に埋もれた墓石が発見され、手作業で行う事の大切さが良く分かりました。たくさんの人で1日中作業しても、果てしなく、まだまだ多くの人の力が必要なことを痛感しました。

震災から5ヶ月、原発の不安はありつつも、日常生活が普通になってしまい、復興はずいぶんと進んでいるという錯覚をもってしまいがちです。このボランティアで見てきたもの、感じたものを忘れず、東北・日本が完全に復興する時まで、一緒に頑張っていきたい。

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